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M-1グランプリ2020のマヂカルラブリーのネタは漫才である

M-1グランプリ2020のマヂカルラブリーについての論争を見て「漫才とは何か」ということについて本気出して考えてみた。

その結果、『観客を笑わせることを目的とし、客席と時空(時間と空間)を共有する舞台で、二人以上の集団が行う芸』が漫才である、という結論に達した。

狭義の漫才(しゃべくり漫才)ではないかもしれないが、少なくともM-1グランプリという大会においてはマヂカルラブリーのネタは漫才である。

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M-1グランプリ2020の感想

はじめにM-1グランプリ2020の感想を書いておきたい。

2020年は低調だったという意見もあるようだ。凄まじい爆発力だった2019年のミルクボーイと比べてしまうと2020年はそこまで突き抜けたコンビがいなかったのは事実だが、どのコンビのネタもバラエティに富んでいて面白かったと思う。最終決戦が3組とも1票差で並ぶという僅差で、最後の結果発表はこれまでで一番ドキドキした。

個人的に好きだったのはニューヨーク。二本目にどんなネタをやるのか見たかった。YouTubeも面白いし、たぶんこれからテレビでも売れていくと思うが、コントも漫才も作り続けてほしい。

敗者復活戦ではロングコートダディが良かった。キングオブコントに続いて好きな雰囲気のネタですっかりファンになってしまった。

あと、どうでもいいといえばどうでもいいが、見取り図の一本目の終わりで立ち位置が左右逆になっているのは新しいな、と思った。

これから楽しみなのはマヂカルラブリーがキングオブコントも制覇し、野田クリスタルがR-1、M-1、KOCの三冠王(野田が言うところのお笑い王)となるのか、ということだ。お笑い王になったところで地上波の情報番組で大活躍するマヂカルラブリーの姿はあまり想像できないが、ラジオも面白かったし、実はクレバーな野田と実は(野田よりも)クレイジーな村上のことだから、テレビに限らずどうにかして自分たちの立ち位置を確立していくだろう。

ついでに書いておくと、最近コントに力を入れているように見える霜降り明星が今後キングオブコントに参戦することもあるのではないかと密かに思っている。野田クリスタルよりも先に粗品が三冠王になる可能性もあるかもしれない。楽しみだ。

漫才の定義

さて、漫才の定義とは何か、漫才とは一体何なのか、という話に移ろう。

『観客を笑わせることを目的とし、客席と時空(時間と空間)を共有する舞台で、二人以上の集団が行う芸』が漫才である、と冒頭に書いた。

『観客を笑わせることを目的とし』『二人以上の集団が行う芸』という部分には異論は少ないだろう。漫才の目的は笑いだろうし、一人喋りは漫才ではなく漫談である。人数の上限はあるのかという問題はあるが、そこは深堀りしない(ちなみにM-1グランプリ2020の出場資格は2人以上6人以下)。

例えばウーマンラッシュアワーのネタは、村本が自分の主義主張を伝えたいという目的もあるのかもしれないが、観客を笑わせたいという気持ちがあるのであれば漫才と言っていいと思う。

重要なのは『客席と時空を共有する舞台で』という点である。

舞台(=芸人)と客席(=観客)が時空を共有していれば、それはもう漫才なのではないか。

コントと漫才の違い

漫才の定義について考えるために、まずはコントについて考えてみよう。

漫才はコントではない。コントではない何かがあるとして、少なくともその一部が漫才であるはずだ。

コントというのは基本的にはお芝居である。舞台と客席は別の世界であり、芸人は自分ではない誰かを演じている。

キングオブコント2020のジャルジャルのネタを例にすると、競艇場の楽屋という設定の世界で後藤が矢田心(新人歌手)、福徳が鹿沼(マネージャー)を演じている。観客は現実世界からその様子を眺めている。

客席とは別の世界で行われる芝居。それがコントである。

漫才はコントではない。

であるならば、最大限その範囲を広げると、客席と同じ世界で行われるものは漫才になり得るといえる。

漫才コントとは

漫才の中でコントを行う、漫才コントと呼ばれるジャンル(スタイル?)がある。

「俺がコンビニの店員やるからお前は客やって」みたいなことを言ってからコントに入るやつだ。サンドウィッチマンとかアンタッチャブルの漫才がこれである。

上で例に挙げたキングオブコント2020のジャルジャルのコントは無理やり漫才コントにすることもできる(ジャルジャルはそんなことしないだろうけど)。

福徳「競艇場で歌う歌手の人とか大変そうやな」
後藤「そうやな」
福徳「ああいうときはマネージャーが野次ワクチンを打ってやればいいのになあ」
後藤「野次ワクチン?なんやそれ」
福徳「知らんの?じゃあ、俺がマネージャーやるからお前歌手やってくれ」

…みたいな前フリのあとで芝居に入れば漫才になる。

しゃべくり漫才こそが漫才であり、漫才コントは漫才ではない、という意見も分からなくはない。実は私自身も漫才コントはあまり好きではない。漫才コントは漫才じゃない!とは思わないが、芝居が強めのネタは漫才ではなくコントとしてやったほうがいいんじゃないの?と思ってしまう。

それでも、漫才コントはコントではなく漫才であるとされている。異論もあるだろうし好みもあるだろうが、少なくとも2020年時点のコンセンサスとしては一応そういうことになっている。

なぜ前フリを加えただけでコントが漫才になるのか。

はじめに芸人自身が素の状態で出てきた時点で、芸人と観客が同じ世界に存在するからだ。あくまでも客席とつながった世界である舞台の上で芝居を見せている。はじめから終わりまで別の世界の話であるコントとは、ここが決定的に違う。

マヂカルラブリーのネタにおける村上の存在

それではマヂカルラブリーのネタはどうだろうか。漫才といえるだろうか。

特に2本目の吊り革のネタは野田がほとんどしゃべらないので、丁々発止の会話の掛け合いこそが漫才であるという考えの皆さんからは漫才と認められないかもしれない。

しかし、マヂカルラブリーのネタにおいて、村上は一貫して村上として存在している(本名は鈴木だけど)。高級フレンチ店や荒れ狂う電車の中ではなく、観客と同じ世界に村上として存在している。

にゃんこスターのネタではスーパー3助は同じ世界にいるアンゴラ村長を見ているが、マヂカルラブリーのネタでは村上は別の世界にいる野田を見ている。

野田がどれだけ別の世界で暴れまわろうと、村上が村上として客席と同じ世界に存在している以上、あのネタはコントではない。

「しゃべくりじゃないから漫才じゃない」という人には「ああ、そういう考え方なんですね」と思うが、「マヂカルラブリーのネタはコントだ」という人には(一本目の村上のように)「ちがうよ、ねえ、ちがうよ」と言いたい。その点だけは明確にしたい。あのネタはコントではない。

コントでなければ、あのネタは何なのか。

あれも一つの漫才の形なのではないか。私はそう思う。

M-1グランプリという大会

ここまでいろいろ書いておいた上で身も蓋もないことを言えば、あれは漫才だ、いや漫才ではない、と視聴者が言い争うのは不毛だ。

公式サイトによれば、M-1グランプリの審査基準は『とにかくおもしろい漫才』。

M-1グランプリの運営が出場を認め、審査員が高く評価したのであれば、少なくともM-1グランプリにおいてはマヂカルラブリーのネタも、おいでやすこがのネタも漫才である、ということである。

ネタの内容についても「著作権を侵害しない」「公序良俗に反するものではない」というようなルールがあるだけで、細かいレギュレーションはない。実は「小道具は禁止」とも書かれていない。

M-1グランプリが古き良き漫才の伝統を守る大会であるならば、「漫才師はスーツ着用のこと」「各人のセリフの量は同程度にすること」みたいなルールを設けているはずだ。

だが、そうはなっていない。

M-1グランプリは漫才の可能性を広げる大会だからだ。

漫才師の発想を試しているともいえる。

マヂカルラブリーのように片方が喋らずに舞台の上で転げ回っていても、すゑひろがりずのように和服を着て鼓を持って登場しても、M-1グランプリで評価されたならばそれはM-1グランプリの中では漫才なのだ。

「二人で出てきてモノマネをやってもいいのか」「小道具を大量に持ち込んでもいいのか」。色々考える人がいるかもしれない。やってみればいい。M-1グランプリで評価されたならばそれはM-1グランプリの中では漫才なのだ。

細かいルールを規定していないということは、M-1グランプリ側が漫才かそうでないかを審査するという覚悟を持っているということだと思う。

当然「そんなの漫才とは認めない」と考える人がいてもいい。M-1グランプリが考える漫才とあなたが考える漫才が違っていた。それだけのことだ。

舞台と客席をつなぐセンターマイク

最後に、漫才の象徴(アイコン)であるセンターマイクについて書いておきたい。

「センターマイクの前に立てば漫才」というようなことを言う人がいる。誰が最初に言い出したのかは知らないが、たぶん昔から言われている。

これは正しい。

「センターマイクの前に立てば漫才」というのと「舞台と客席が時空を共有していれば漫才」というのは同じ意味である。

センターマイクはコントの世界に存在してはいけない。矢田心と鹿沼の楽屋にセンターマイクが立っていたらおかしい。仮に立っていたとしても、矢田心がそれに触れることがあってはいけない。

漫才師がセンターマイクの前に立ち、その高さを調節しながら「どうも、〇〇です」と言ったとき、舞台と客席の世界はつながる。

カリン塔と神様の神殿をつなぐ如意棒のように、センターマイクが舞台と客席をつなげている。

舞台と客席の世界がつながってしまえば、そこで起こることはすべて漫才なのだ。

さいごに

なんだかんだいって、「あのコンビのあのネタは漫才だ」「いや漫才ではない」という話題で盛り上がっている人がたくさんいるというのは、漫才業界(そんな業界があるのかわからないが)にとっては素晴らしいことだと思う。

残念ながら、「あのバンドはロックだ」「いやロックではない」という話題で盛り上がってる人はいない。いるかもしれないけど沢山はいない。

別にロックじゃなくてもヒップホップでもいいし、なんならラーメンでもなんでもいいが、「あれは〇〇だ」「いや〇〇ではない」なんていう論争が巻き起こるのはそのものが注目されている証拠だ。

M-1グランプリが認めても私はあのネタは漫才とは認めない、という人も、M-1グランプリがあったから漫才がここまで注目され進化している、ということには異論はないだろう。

M-1グランプリに関わるみなさん、この状況で開催にこぎつけてくれてありがとうございます。

また来年も面白い漫才が見られたらいいな、と思う。

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